連帯責任

ご存知のようにスポーツ界では連帯責任というのがある。いやスポーツ界だけではないのかもしれないが。陸上競技のような個人競技ですら、この連帯責任というのを経験することが人生で何度かある。この力は強力で、人の行動を抑制するに大きな効力を発揮する。

随分前だったか、とあるスポーツチームで問題が発覚した。暴力か喫煙だったかと思う。チームは責任を取り、大会に出場できなくなった。その時にチームメンバーだった人間と話す機会があった。大会に出場できないことが決まった後、当事者である選手たちが土下座をし皆に謝ったのだそうだ。流石にそこでは暴力はなかったもののやや強い言葉が浴びせられ、その後よそよそしい関係のまま卒業したという。他にもスポーツ界にはこの連帯責任の例が多い。

この連帯責任の力とは何か。それは、このような例をいくつか社会に見せることで、自分の罪は自分だけのものではないと悟らせることにある。自分のせいで、チームに迷惑がかかる。会社に迷惑がかかる。家族に迷惑がかかる。法的には罪は切り離されているが、社会的には切り離されていない。コミュニティでほとんどの人間が生きているのが近代だから、これは強い力になる。

この連帯責任が広がったような社会において巧みに人もそのことを突いてくる。あなたのせいでみんなに迷惑がかかるんですよというのは、非常に刺さる言葉となっている。性的被害にあった子供達のストーリーを集めた本を読んだが、幾人かの性的加害者はこのことを周囲に言えばお母さんや家族に迷惑がかかるよと持ちかけていた。周囲のことを考えるような共感の高い子にほど、この言葉は効く。

人の行動が悪い方向に転がらないように抑制する力も強く働く。陸上選手が陸上界に迷惑がかかると考え、人の行動が抑制されそれが積み重なり、あの競技をやっている選手の振る舞いは素晴らしいね、となる。個人より組織を考えることは、組織という面から見ると良い点も多い。同じパターンで一旦犯してしまった不祥事を隠蔽する方向にも向かいがちだが。

私はこのような性格だから連帯責任には反対の立場をとる。まず、第一に日本人が緩やかに感じている息苦しさとは、この他人に迷惑をかけてはならないという圧力によるものだと考えている。自分の行動が全体にどう影響するかを考えることは素晴らしい側面もあるが、一方で全て集団の空気を優先することにもつながる。自分は何か迷惑をかけていないだろうかと日々チェックしながら生きる日々はそれなりに息苦しい。少しだけ緩くてもいいと私は思う。

また、子供達に関しては迷惑をかけて悪かったと考え始める恐れがある。ここで迷惑とは何かを考えてみる。迷惑とは、必ずしも法的社会的に正しいとは限らない。例えば、正しい発言であっても会議中に発言をし、会議が長引いたり決まっていた結論が歪み、みんなが迷惑に感じる可能性もある。迷惑かどうかはいつも集団が決める。だから、日本人はおさわがせしましたという罪で謝罪する。騒いだ世間の方に問題があったかもしれないとは考えない。このような文化において世間はいつも正しい。世間とはマジョリティのことのように思えるが、正確にはぼんやりと漂う空気のことである。話をもとに戻すと、子供達はこれが罪かどうか、悪いことかどうかを空気を見ながら判断するようになる。そして自分がどう思うかよりも、皆がどう思うかを行動の基準にする子供が増える。

私たちは完全に切り離された個人としては存在しない。様々な影響を受けまた与えながら生きている。しかしながら、その範囲をどの程度のものと捉えるかにより、随分と社会の様相は変わる。連帯責任は個人より組織を優先する文化を前提にして成り立っている。社会がこの間で揺れているように見える。

 

小森 清敬

 

 

  • 2018.08.27 Monday
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  • 10:56
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辞める勇気

テレビの世界で、最近、事務所をタレントが出る出ない、分裂するしないという話が多い。そういった騒動が一つ一つ取り上げられて語られる。しかしながら考えてみると、夫婦ですら関係解消が珍しくない時代に、形式上はどこかと契約をしているだけの状態だから、いつ解消されてもおかしくない。そのリスクは昔から知られていたので、表裏の力で一旦成功したタレントの移籍を制限してきた。最近はそれをやりにくい社会情勢になり、タレントが本音を話し出したように見える。

スポーツ界にも定期的に不祥事が起きるが、現場にいる身としてその多くは外部の人間との流動性が低いことが問題の根源にあると思う。どの競技団体も選手が引退した後にお世話になる世界は、自分の出身競技団体になることが多い。その団体の人材流動性が低ければ、多少の違いはあれど、ある程度権力が集約されていく。実際にそうかどうかはともあれ、選手は自分の現役時代の振る舞いが引退後自分が競技団体と関わる時に何らかの影響があるのではないかと勘ぐり始める。そうなると外に出ることを決めた人間以外は、どうしたって忖度がある。日本選手のコメントに、組織への提案、改善策の要求が少ないのはそういった背景があると思う。

私は常々日本社会の問題は人材流動性だと思っていて、人がとにかく流れないので、組織がムラ化し、問題を起こしているように見えている。組織への忠誠心の裏返しなのかもしれないが、忠誠を誓い関係が近づきすぎれば、社会の常識より組織の論理を優先するようになる。武士道では至極の愛は諫言にありと書いているが、わざわざ強調しなければならないほど組織に染まれば反対しにくかったのだろう。私は個々人がはっきりモノを言うように訓練し直すと言うのは時間がかかるし現実的ではないので、ひたすらに人を入れ替える(しかも意思決定層の)ことしか対応できないと思っている。

冷静に見てみれば、引っ越しと同じようなもので、契約先を変えたり、組織を変えたり、産業を変えることは大した問題ではない。特に先が読めない時代では個人は上手に船を渡り歩けた方がむしろ安全なことの方が多い。産業や企業なんて昔からどんどんなくなる運命にある。代わりに新しいものが出てくるから心配しなくてもいい。にも関わらず人材流動性が低いのはなぜか。それはひとえに、日本人が辞める経験、変える経験を人生でしてきていないことに関係していると思う。一回目が怖いだけだが、人生でまだ一回目が訪れてない人もいる。

日本人は、辞める練習をしないといけない。外の世界がどうなっているかを定期的に観察した方がいい。また過去の経験から比較できるようになるべくたような経験を持った方がいい。辞めることにはそれなりのリスクがあるというのは確かだと思う。ただ、正確に何が危険かを理解しなければならない。実際の危険と、本人が恐れている感情の間には、とても大きな距離がある。例えば私の妻は外国に対し過剰な警戒心を抱いていたが(むしろ東京にすら!)いざ一緒に旅行に行ってみると大した違いがないことを悟る。知らないことは恐れを過剰に拡大させやすい。恐れはただの思い込みに過ぎないが、人生長い間思い込みを持って生きてくると、その人にとっては動かしがたい現実のように感じられるから厄介だ。

日本社会は別れにウブすぎる。出会って別れるのは当たり前で、そんなことにいちいち騒がないで、各自それぞれ自分に合うところを探した方がいい。私は日本は辞める練習の量が圧倒的に少ないと感じている。

私の長男は幼稚園からサッカーを習い、5年生で1クラブ目、6年生で2クラブ目、中2で某Jクラブ下部組織、計3クラブをやめ、今、勉強漬けの毎日を送っている。賛否様々な意見があるだろうが、自分の人生は自分でしか切り開けないのだから、少なくとも辞める練習量は私より上だ!!人に判断される人生は嫌だ!!これが彼の結論でした。

 

小森 清敬

 


我慢

私は幼少の頃から、自分の足の動きを制限するものが嫌いで、今でもずっとジャージだ。20代はスーツを着たりめかしこんだりと我慢をしていたが、30の半ばをすぎたあたりからやはり我慢ができなくなりパンツは少なくとも生地と心地よさで選ぶようになった。

グラミチというパンツがあり、元々はクライマー用に作られていたものだが、それが街着として浸透した。私は、はき心地が良いのでこれを愛用していたが、元々有名ではあったものの最近は本当にあちこちで見かけるようになった。今朝も歩いていたらあるアパレルの正面に大きくロゴが書いてあった。みんな窮屈が嫌になったのかもしれない。売れてるのだろう。

考えてみれば昔は我慢しなければならないことが多かった。家は寒かっただろうし、家事も多かった。会社もしきたりが多く、真夏でもみんなスーツを着ていた。部活でも体罰が多くあったし、上下関係も厳しかった。それに比べれば、まだまだのところもあるが、今は随分自由になった。アンカンファタブルなものは改善され、パワハラは強く取り締まられ、無駄なしきたりも減り、部活でも体罰は禁止になった。

ダンアリエリの著書で紹介されていたが、人生のある時期に痛みを抱える時期があった人は、痛みに対して許容しやすくなるそうだ。彼自身が、全身火傷を負ったタイミングで痛みが長く続き、元の生活に戻った時に痛みの感覚が鈍ったと感じたことから発想した。人間の大きな特徴の一つは可塑性だから確かにこれは納得できる。可塑性は言い換えると”慣れ”ということになるだろうか。

私自身の人生で言うと、子供の頃に比べ、競技時代にトレーニングで苦しいことをしていたので、苦しさや辛さや、没頭することには抵抗がなくなっている。ただの成長かもしれないが。

昔に比べて我慢しなければならないことは減ってきているし、これからもそうなり続けて行くと思う。ただもしも一時的にでも戻ることがあるとしたら、耐性がない人は急に苦しい状況に置かれるだろう。長期的にはないだろうが、短期的には状況が起こり得るかもしれない。また、地球の中でも許容度は違うから、我慢の許容度が小さければ訪れられる地域や文化も制限が出てくるだろう。私は息子にはなるべくいろんな体験をしてほしいことと、いろんな場所や人にあってほしいので、耐性が必要だと考えアンカンファタブルな経験をなるべく多くさせたいと思っている。

最近、昔のパンツを履いてみたが、窮屈だし何か足の動きを制限されているようで、1日履き続けることが我慢できなくなっていた。それで、時々心地悪いパンツを履いて慣らしておくか、もう諦めるかどちらにしようか迷っている。

我慢できるがしないことと、我慢できないことの間には結構大きな差があるように思うが、自分が今どちらにいるのかがわからないのが難しい。

 

小森 清敬

 

 

  • 2018.08.25 Saturday
  • -
  • 10:51
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怒りと成功

コンプレックスや嫉妬、または怒りは成功に比例するなのだろうか。そう感じること自体は避けられないが、上手く使えばむしろ成功につながるという着地に行き着く人が最も多いように思う。では、具体的に怒りを上手く使うとはどういうことか。

怒りはエネルギーにつながる。例えば、ある飲食店で店員にすごく嫌な思いをさせられたとする。むしゃくしゃするのでもう一軒別の店に行くが、あなたは腹の虫がおさまらない。家に帰ってその店のサイトを見つける。できるだけみんなが悪い印象を抱くように上手くコメントを考えて書き込む。それでも満足しないので、どこか他のサイトにも間接的に悪い評判を書き込む。人間は必死で何かをしている時には必ずそこから学ぶ。この例で行けばどうすれば店が困る書き込みができるのかを学習する。シンプルに言えば、相手に効率よくダメージを与える能力が身につく。

さて、ここで問題になるのはこの能力は自分自身の人生の何をよくしてくれるのかということだ。この例で身についたのは相手を傷つける能力だが、残念ながらこの能力が必要とされることは社会においてそれほどない(完全にないわけではないと思う)。必要とされないということはその能力を用いて自分の人生がよりよくなることは難しい。怒りに支配されているときの学びにはこの問題がつきまとう。何を学ぶかは怒りが決めてしまい、自分で選べなくなる。

さらに問題なのは、怒りに任された行動は概ね対処療法的なので、根本をなす問題は解決されないことだ。三途の河原が辛いのは、積み上げたものがなんら現状を変えないからだ。怒りはこのスパイラルに自分を引き摺り込んでしまう。つまり、怒って行動しても自分も外界も変わらないので、無力感を自分に感じさせる。次第に自分には力がないのだと自分自身に無自覚に刷り込んでしまう。

では、どうすれば怒りを自分の成長や成功に繋げられるのか。怒りの対象の根幹はなんなのかと考えるとだいたい二つに行き着く。社会か自分だ。人間はとても社会的な生き物で、構造に多分に影響を受けて振る舞いを決めているので、つまるところ構造を変えるしかないというところに行き着く。じゃあ、どうすれば構造は変えられるのか。何が問題か。その問題はどうすれば動くのか。動かせる人は誰なのか。そこにはどうすればアクセスできるのか。おなじ怒りからくるエネルギーでも、人を包括している構造への理解に向けた方がよほど汎用性の高い能力が手に入る。

一方で個人の側にも考えが及ぶ。簡単に言えば自分に力があると変えられることは多い。ただそれには時間がかかる。大量に学習して能力を高めなければならない。また、怒りを感じるには価値観が必要になる。価値観がなければ怒りもない。私がそれに怒りを感じるに至った価値観の根幹は何か。そのように考えていくと自分を理解しなければならなくなる。結果、能力を高めるか、自分を把握するかのどちらかにエネルギーが向く。

ペインポイントという言葉で表現されるが、自分自身が社会の中で苛立ちや憤りを覚えた部分の改善には人はかなり執着してエネルギーを割ける。起業家に個人的な体験からくる社会への憤りが出発点としてある人が多いように思われるのはこのエネルギーをうまく企業に生かしているからではないだろうか。同じ怒りでもこの怒りは、社会をよりよくし、個人にも富をもたらす。

このように怒りを感じること自体は人間にはコントロールできないが、怒りを上手く使い人生をより良いものにはできる。怒りを生産性の高い実務に落とせる人は強い。そして実務に落とすためには怒りに支配されず、一歩ひいて全体を眺め抽象概念で理解する必要がある。後者がなければ事あるごとに自分の中にある別の人格に乗っ取られるような人生を生きる。

私自身がそうだったように!!

 

小森 清敬

 

  • 2018.08.24 Friday
  • -
  • 10:43
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プロとアマチュア

このところの相談で部活動・スポーツに関する相談が多い。

学生は中体連・高体連が終わり、新体制の部活動・クラブ活動に移行したことで悩みにつながっていると思う。

 

今回はスポーツにおけるプロとアマチュアという考えと、世の中が進もうとしている方向性が一致しているという考えをお伝えしたい。

 

スポーツにおけるプロとアマチュアについて私なりに考えてみると、一番の違いは自分の成長の責任と、結果責任を自分で負うという点にあると思う。

アマチュアのチーム(高校のチームなど)はチーム一丸となって練習をして、ある程度練習の内容が決まっているので皆それなりに成長する仕組みがある。本人のやる気の大小に関わらずチームの空気やシステムで個人は成長することができる。勝つ負けるの責任を選手たちは多少は負うけれども、言われた通りやっていたという点で、全部の責任を感じなくてもいい。

一方で、プロの世界では、結果責任を個人がとる。誰かが無理やり練習をさせるわけでも、メニューが決まっているわけでもない。トレーニングをやらなくて問題ないが、それで負けるのは本人で、損をするのも本人でしかない。自分をどう成長させていくかの全責任を自分自身が負っている。それに失敗すれば淘汰されるだけだし、うまくいけば勝利を手にすることができる。責任を感じようか感じまいが、いずれにせよ自分の人生で取らさせることになる。

勝利者の枠が無尽蔵に増えていくのであれば、プロの世界もそこまで厳しくはないが実際勝利者の数は少ない。またチームのレギュラー数にも限りがあるので、そこを必死で争うことになる。プロの世界ではアマチュアの世界とは違い、努力しない人を励ましたりしない。また一人転げ落ちただけだと一瞥して終わる。

アマチュアの世界は成長することや勝利の責任をチーム(指導者)に預ける代わりに、自由を一定量手放す。

プロのチームは、自己の成長や勝利の責任を負う代わりに、自由を手に入れる。

今、働き方について様々な議論がなされているが、結局のところ日本がプロ化しようとしていると私には聞こえる。もう自由を組織に捧げなくてもいい代わりに、誰もあなたの成長の責任をとってはくれない。働く時間も自由になるが、代わりに何かを生み出せない人はいくら時間を費やしても評価してもらえない。

自由は素晴らしいが、恐ろしいものでもある。どうもこの流れは止まらなさそうだから、適応した方がよさそうだと個人的には思っている。

 

 

小森 清敬

 

 

 

 

 


単球化した欲求

 

まだ若いときに、あるトレーニングのモデルにどっぷりと使ったことがある。結局それは私にはうまくはまらずに、そのトレーニングをやめることになったが、今考えると、その時の心理は非常に興味深かったなと思う。大人になって友人に会ったら、私は事あるごとに”僕は真実を発見したんだ”ということを言っていたらしい。

人体は複雑である。右肩が痛かったとしても、右肩の問題なのか、左側に体重を乗せていることが問題なのかわからない。また頭と体も切り離せない。意味的には身体の中に脳は含まれる。物事は複雑に絡み合い、問題の原因は簡単にはわからない。常に何かを試し、変化を洞察し、自分なりに整理し仮説を立て、また試すしかない。そこに確固たる正解はなく、あると思っているならそれはすでに間違いの入り口に立っている。

最初このようなことを先生に言われた時、正直言って、この人は知的ではなく勇気もないからはっきり言えないのだと思った。正解はこれであると言いきっている人の方がかっこよかったし、賢そうに見えた。今考えてみると、それは物事をしらなかったからだと言えるし、またただ頭がそのような複雑なものを複雑なまま捉えるという負荷に耐えられなかったとも言える。

何かをシンプルに説明することは大切だけれども、それは一旦このようなものにしておきましょうかという程度の意味にしか過ぎない。複雑な人間関係をそこにある石3つで説明するようなものだ。これが真実なんて思えないけれどもこうでもしないと理解できないし、伝えられないというのが近いと思う。そもそも言語を使うこと自体が、ある物事を切り取るので現実をそのまま表すことができない。

ところが、ある物事をはっきりとシンプルに示すモデルは強烈で、特に負荷に耐えられない人にとっては救いになる。必ず強くなるトレーニングがあると信じた方が負荷は軽いし、どこかに絶対悪があると思った方が負荷は軽い。複雑なものを複雑なまま受け入れることは、まず何より疲れるし不快感であることも多い。ああ、真実はそうだったのかと納得することは快楽でもある。

洗脳に関する本を読んだ時、洗脳をするときに効果的な状態は、睡眠不足、疲労困憊、孤独だと書いてあった。疲れるとやはりシンプルなモデルを受け入れやすいのではないか。最近社会全体が、疲労困憊気味で、孤独でもある感じがしていて、こういう時は端的に言い切るモデルが好まれるんだろうなと思ったが、考えてみるとずっとそうであったような気もする。

 

 

小森 清敬

 

 

 

 


私とは何かー個人から分人へ

私とは何か?

 

 

個人という単位ではなく、分人という誰かとの関係という単位で捉えるべきではないかということが丁寧に書かれています。おそらく誰しもがぼんやりと考えたことがあるいくつかの自分という考え。分人という考えはそれを肯定し、それは自然なことなのでそのまま抱えていきていけばいいと、背中を押されるような気持ちになります。

内容に強く納得しつつも、実は私はこの感覚が”今は”あまりありません。かといって、ものすごく社交性が強いかというとそういうわけでもありません。

小さい頃は、同じような感覚がありました。親と一緒にいるところを友達に見られたくありませんでしたし、中学校の友達と高校の友達が会ったりするのはいやでした。また、本当の自分でなんなんだろうと考え込んだことも一度や二度ではありません。それでも今は抵抗感がなぜか小さい。

自分で分析しながら本を読んだのですが、競技体験というのが大きいような気がします。競技を極めていくプロセスで、他者を意識しないで、ひたすらに没頭する世界に長くいると、外部の目に対し鈍感になり、平野さんの言葉でいう、自分と向き合うだけの分人がかなりの領域をおさめるようになっているのかもしれません。

コミュニケーションが上手い人も、そうではない人も、何らかのヒントになると思います。皆さんも読んで、自分はどうだろうと考えてみてください。

 

 

小森 清敬

 

 

 


サブリミナル・マインド

 

意識について興味を持っていた時に読んだ本です。この本をきっかけにしてベンジャミンリベットのマインドタイムを読みました。

意識と無意識についてかかれています。初めて認知心理学や、無意識の研究に触れた人はちょっと面食らうかもしれません。それぐらい日常の私たちの感覚とは違う世界がここにあります。

例えば分割脳の患者の例がでてきます。てんかん患者の治療として昔は脳梁を切っていたそうで(なんと!)、そういった患者は右脳と左脳が切り離されます。人間は右視野を左脳で、左視野を右脳で把握しているそうで、右視野に映ったものは左脳で把握できるので言語で答えられるのですが、左視野に映ったものは右脳なので言語では答えられません。ところが自分では言語的に何かが認識されていなくても、目の前にあるカードを何でもいいからとってというと結構な確率(7割程度だった気が)で当たるそうです。本人にわかっているという自覚なくして。

つまり私たちが考えて把握していると思っている世界は、私たち自身のほんの一部でしかなく、無意識で行われていることや、無意識の世界で起きていることは想像以上に私たちを支配しているというのがざっくりとした内容だと思います。私の知らない私が私の中にいて、そしてその私が出した結論や方向性(比喩表現として)が意識の世界の私たちの行動や判断に影響を与えているわけですね。

他にも興味深い実験内容が紹介されていて、読みやすいので是非読んでみてください。

 

 

小森 清敬

 

 

 

 

 


双子の遺伝子

私は5人の子供を授かった。

 

長男・次男・三男と3兄弟。

 

最後にかわいい双子の娘達。(もちろん3兄弟もかわいい?)

 

エピジェネティクスに興味を持った時に読んだ本。

私は進化論が好きなのですが、獲得形質は遺伝しないということが否定される可能性がある(実際には全然違いましたが)という話を聞きつけてそんなバカなという思いで本書を手に取りました。読んでみてエピジェネティクスに関する記述は少なく、どちらかというと先天性か後天性かを双子の事例を使って説明しているという印象でした。

いくつかのテーマを設定しています。幸福感,運動の才能、音楽の才能,信仰心,育児方法,犯罪率,肥満,癌や自閉症,同性愛,浮気と性欲。これらが先天性なのか後天的に決まっているのかを説明しています。一卵性の双子はdnaが一緒なので、例として説明しやすいんですね。

で、結論はというと、人間がdnaで決まっているものは一部で、やっぱり生育環境は結構大きいよねというものでした。後天的に変わるものも大きいですし、また仮に遺伝子として持っていても、後天的な環境いかんでそれが活性化するかどうかもわからないというものらしいです。

子育て中だと、いろいろ観察できて面白いかもしれません。人は変われるという気がして、気分がいいです。

 

我が家の双子の娘が今、私の研究材料のひとつです。

 

しかし、双子の上には3人の兄がいて、落ち着いた環境で育てることが難しい。

 

5年後・10年後 どのように成長しているのか?

 

遺伝子なのか?環境なのか?

 

今後が楽しみでならない!

 

 

小森 清敬

 

 

 

 

 

 


難しい課題

元少女無罪を主張 精神障害を理由に

名古屋で殺人事件を起こした少女の初公判が行われた。弁護側は少女には精神障害があり、責任能力がなかったと主張している。被害者の方の年齢と私の母親の年齢は近い。想像するだけで胸が痛くなる。

私は犯罪を犯した人を更生させるのがどういった仕組みがベストなのか、よく考える。被害者が正常であるか異常であるかの判断はどのようになされるのだろうか。また異常だった場合どのようにして正常化への取り組みは行われるのだろうか。

こういう事件が起こる度に、

〕澣

∧別

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の三つのレイヤーを想像し、どの段階の話をしているのかを考える。例えば弁護側は記事を見る限り、はあったが、△なかったと主張しているのだと思う。では、更生を行うというのはどういうことなのだろうか。を制限できるようにするのか、△縫▲廛蹇璽舛垢襪里、または,ら変えようとするのか。

教育は,縫▲廛蹇璽舛任るのか。彼女のような特殊な場合でない時は、,剖軌蕕魯▲廛蹇璽舛靴討いい里。また,篭軌蕕砲茲辰栃僂┐Δ襪里。もし変えることができないのであれば、,箸いν澣瓩鯤えていて、△鉢を強化することによって犯罪を起こさないようにするということが正常化のアプローチなのか。

話せばわかるという世界観は、相手は必ず同じように感じ、同じように考えるはずだということが前提にあると思う。そうではない人がいたら、仮に宇宙人がいたら私たちは本当にコミュニュケーションできるのだろうか。

昔読んだ、臨床の詩学という本が浮かんだ。

 

 

小森 清敬

 

 

 

  • 2017.07.18 Tuesday
  • -
  • 15:12
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